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オーナーのストーリー

初めましての方も、既に私をご存知の方も、こんにちは。
 
「パンドラのはこ」オーナーの梶本と申します。
 
ここでは、私がなぜ「パンドラのはこ」というハンドメイド委託のお店を始めることになったのか、幼少期からの自分のストーリーを通じて伝えていきたいと思います。
 
 
パンドラのはこは、3つの経営理念のもとに運営しています。
 
 
 
ーパンドラの経営理念ー
 
1.その人らしさをクリエイトし、楽しさを創造する場であること。
 
2.人つなぎ~人、こと、体験、物をつなぐ~
 
3.集まることでシナジー効果(相乗効果)を生み出す場であること。
 
 
 
なぜ、このような理念を立てたかと言うと、そこには私自身がこれまで生きていた中で、経験をしてきたことが大きく関わってきます。
 
 
子ども時代の孤独。
ハンドメイド販売の成功体験。
失恋で身も心もボロボロになった出来事。
仕事と家庭のあり方に思い悩んだ日。
看護師を辞めて起業に挑戦した話。
 
 
これらの経験から私は、「人は、いつでも前を向いて挑戦できる」「人は、人によって絶望し、人によって救われもする」ことを学びました。
 
 
このストーリーの中では、私自身が人を通じてどのような経験をし、全くのゼロから起業して今現在の結果を出せるまでになったのかを綴っています。
 
 
とても長い物語になりましたが、ご興味のある方はそのままスクロールして読み進めて頂けましたら嬉しいです。
 
 
普段の私を知っている方は、もしかすると意外な一面を垣間見るかもしれません。
 

目次

1.「ハンドメイドのお店」パンドラのはこ オーナー

2020年現在、私は神奈川県は湘南エリアにある寒川という町で「パンドラのはこ」という名前のハンドメイドのお店を展開しています。
パンドラのはこ
パンドラのはこ
 
店内は、このように明るくて広いお店です。
 
毎日のように、全国からハンドメイドの作品が届きます。
 
パンドラを利用してくださる皆さんは、私のことを「かじぃさん(又はかじさん)」と呼んでくださいます。
openchat
↑「パンドラのオープンチャットコミニュティ」より。
 
パンドラ利用中の作家さんのLINEチャットより抜粋。
リリソアblog
↑パンドラ利用中の作家さんのblog記事より抜粋。
紹介いただきまして有難うございます。
 
 
 
Twitter
↑時にはSNS上で作家さんにプチマーケコンサル的なお話をしたり…。
 
 
Twitter
↑ 時にはSNS上で作家さんに「いのちだいじに」と心配頂いたり…(笑)。
 
私は作家さんの思いや熱量をお客様にそのままお伝えしたいので、時間を見つけてはSNS上で作家さんとコミュニケーションを取るように心がけています。
 
ただ作ったものを置くだけのお店にはしたくない。
 
作品の先にある、作り手の思いを繋いでいくような。
 
作り手の熱量や体温を伝えていける。
 
そんなハンドメイドのお店を作りたいと起業したのが2018年の2月。
 
細々とではありますが、一歩ずつ着実に歩を進めてきました。
 
Twitter
↑今では地域の方からも温かいサポートを頂いています。感謝!
 
 
起業3年目を迎えている現在、およそ125名のハンドメイド作家様がパンドラをご利用くださっています。
 
そのうちの約半数がハンドメイドを始めて1年未満のハンドメイド初心者の作家さん。
 
ハンドメイド初心者の作家さんの多くは、だいだい3つの悩みを抱えてパンドラのドアを開けて来られます。
 
 
 
~ハンドメイド初心者さんの3つの悩み~
 
 
1.ハンドメイドで作品を作ってはみたものの、自分の作ったものをお客様が購入してくれるか自信がない。
 
2.地方から出店しているために、パンドラに来店されるお客様への作品のアピールや知らせる方法が分からない。
 
3.身近な人にハンドメイドで作品を作っていることをあまり知られたくないけど、ハンドメイドをしている同じ趣味の仲間との交流はしてみたい。

 
 
 
私は「パンドラのはこ」というお店で、このようなハンドメイド初心者の方が抱える悩みを解決できる仕組みを作ってきました。
 
 
パンドラの作家さんのblogに、とても分かりやすくパンドラを紹介して頂いていました。
有難うございます。
 
下記は現在パンドラを利用頂いている作家さんのblog記事になります。
花果blog
花果blog
 
blogから、現在、実際にパンドラを利用中の作家さんのリアルな感想を詳細に紹介してくださっています。
 
 
「かじぃさんはいつも生き生きしていて楽しそう!」
 
「キラキラお仕事していて、凄く羨ましい!!」
 
 
これは作家さんや、お客様に私がよく言われる言葉です。
 
 
好きなことで起業をして仕事を自らの手で創る。
 
順風満帆で自由な生活に見えるかもしれません。
 
何もかもが上手くいっているように見える私ですが、ここに至るまで随分と遠回りもしてきています。
 
ここでは、私が辿ってきた軌跡(ストーリー)について、お話をしたいと思います。
 
 

2.空虚、孤独と背中合わせの子ども時代

かじぃさん
 
子どもの頃の私は、「割とそつなく、何でも器用にできる子」でした。
 
運動も好きだし、勉強も得意。
 
先生受けが良くて、真面目で素直で、反抗しない、絵に描いたような優等生。
 
そんな私にも苦手なことはありました。
 
それは「友達をつくること」「感情を表に出すこと」
 
私の通った小学校は九州の過疎地にある、小さな小学校でした。
 
全校児童数が30人未満。
一緒に小学校を卒業した同級生は8人。
 
その8人の中でさえ私は1人浮いた存在で、休み時間は1人図書室で本を読んで過ごすような大人しい子でした。
 
いじめられていた、という訳ではありません。
 
何となく、話が合わないというのを肌で感じ取って、自分から距離を置いていたのです。
 
回りの子に合わせて話をすることに、何となくストレスを感じていた私は、1人で没頭できることに時間を費やして日々を過ごしました。
 
本を読む、TVゲームをする、絵を描く。
 
苦手な人付き合いから逃げて1人で過ごす時間は、回りに気を遣わなくても良いので楽でした。
 
と、同時にとても虚しくて、とにかく寂しかった。
 
同年代の人と関わることに面倒くささを感じていて、自分から距離を置いておきながら、反面どうしようもない寂しさを胸に抱えてもいたのです。
 
はつらつとした小学生を演じながら、空虚と孤独が背中に張り付いた子ども時代。
 
やがて、そのまま、抱えている空虚や孤独も一緒に成長していきます。
 
 

3.削がれ落ちた感情、抜け殻のココロ

孤独
中学は、地域の小学校12校から卒業した生徒が通ってくる、大きな学校でした。
 
 
音楽が好きだった私は、吹奏楽部に入部。
 
私が所属していた部活は、部員同士の連帯感が異常なくらい強い、80人超の大所帯の部活でした。
 
この部活で、私は人生初の挫折を経験します。
 
 
中学2年生の冬。
 
先輩たちが部活を引退し、自分たちが部活を引っ張っていく代になった頃のお話です。
 
大所帯の部だったため、部長の他に、部員をまとめていくサポート役が4人。
 
私はそのサポート役に選出されました。
 
このサポート役は、部員と顧問の調整役。
 
コミュニケーションを取ることが苦手だった私にとって、それは荷が重過ぎる役割でした。
 
当時の部活では顧問が絶対的な立場。
 
顧問のことを盲目的に慕う風潮があり、例え顧問が間違ったことをしていたとしても生徒は皆、盲目的にそれを信じる。
 
ある種宗教じみた雰囲気すらありました。
 
そんな顧問の機嫌を損ねると、練習を見てもらえなくなる。
 
サポート役はそんな顧問の機嫌を調整するような役割を担ってもいたのです。
 
人と関わることを極力避けてきた私。
 
自分の気持ちや部員の意見を顧問に伝えようとするのですが、その場で言葉として、対面でのコミュニケーションに必要な言語化ができなかったのです。
 
上手く伝えようとすればするほど言葉はもつれ、声は声量を失い、表情は硬く強張る。
 
そんな私が、顧問に目を付けられ、嫌われるのに時間はかかりませんでした。
 
合奏中に、ミスをした自分の足元に指揮棒が投げられ刺さるように飛んでくる。
 
晒し者のように、名指しで音楽室から退出を促される。
 
話をしようとすると、背中を向けて無視され、避けられる。
 
 
 
「俺はよぉ、お前みたいな辛気臭い奴は、見たくない」
 
「お前みたいな奴は、いらん!必要ない!!」
 
 
そんな言葉を、顧問に正面から浴びせられてもなお、自分の気持ちを押し殺して、へらへらとその場を取り繕う毎日。
 
大好きだった部活の時間は、いつしか恐怖と苦痛の時間になっていました。
 
そんな状態が半年ほど経った頃でしょうか。
 
私は、私の中から「感情」が削がれ落ちているのに気づきました。
 
 
心が、凪の状態。
 
 
喜びも悲しみも、そこにはない。
楽しさも、ない。
湧き上がってくる興奮も、ない。
 
 
何を見ても、何を聞いても、もはや心が無風で、興味も、感動も何も湧かないのです。
 
 
この頃は、笑うことも泣くことも出来なくなっていました。
 
 
15歳。
 
 
高校受験を控えた年に、私は心のバランスを完全に失い、人間関係の挫折と鬱を経験しました。
 
 
この経験から外界に対して心を閉ざしてしまった私は、中学までの自分を1度リセットしようとします。
 
そこで、高校は同じ学校から進学する生徒がほとんどいなかった学区外の学校へ行こうと決めたのです。
 
 
とはいえ、思考状態も静止していたこの頃。
 
まともに物事を判断できる状態ではありませんでした。
 
そんな時に、たまたまアルバムの写真をボーっと眺めていて、こんなものを見つけました。
 
それは、私が5歳の誕生日を迎えた頃に保育園で貰った、お誕生日カード。
 
誕生日カード
 
将来の目標も夢も何もなかった私は、5歳の頃の自分が憧れていた職業を目指すことを口実に、衛生看護科を持っている学区外の高校の進学を決めます。
 
 
高1で親元を離れ寮に入り、これまでの人間関係をリセットして、ゼロから人間関係を構築しよう。
 
これは私にとっての、挑戦でした。
 
 
挫折と鬱の影響で成績を200点以上も落としていました。
 
憔悴しきった状態で、出席日数すら危ぶまれていた私。
 
推薦枠で狙っていた高校に進学出来たことは、ほとんど奇跡に近かったと今でも思います。
 
 

4.エネルギーと熱がみなぎる世界へ、憧れを求めて。

live
 
人間関係をリセットする目的で学区外の高校に進学した私ですが、これまでの性格が急に変わるはずもなく。
 
自分を変えようと学区外の高校に進学したのに、人付き合いは相変わらず積極的にはなれませんでした。
 
 
高校生になった私が夢中になったのも、やはり音楽でした。
 
邦楽ロックやパンクを聞くようになり、自分の置かれている日常とは、全く切り離された別の世界があることを知ったのです。
 
live会場に足を運ぶと、そこはエネルギーと熱がみなぎる空間。
 
これまでの自分が経験したこともなかった、爆発的な興奮。大音量。混然一体となる会場。
 
ドラムやベースが刻む重低音は、心拍のビートと重なりました。
 
 
あの空間に行けば、目の前の嫌な現実を一時でも忘れられる!
 
自分を救ってくれる、彼らの音楽。
 
彼らと同じ空間を、その瞬間の時間を共有したい!!
 
 
私は、このエネルギーと熱が生み出す空間に魅せられて、好きだったバンドのliveに足しげく通うようになるのです。
 
15歳で、1度心の死を経験した私にとって、それは、再び芽吹いた生きる理由でした。
 
 
近隣の都市でliveの開催がなければ、新幹線や飛行機を使って大移動をしての会場入り。
 
新しい音源が出れば予約して音源を入手し、雑誌の巻頭を飾れば、保存用と読むためのものと2冊を購入する。
 
 
こんなことを年に数回も繰り返していては、当然自分のお金は底をつきます。
 
そのため、liveに着ていく服や、普段の生活で着る服は、自分で作り、手持ちの服をカスタムして着るようになりました。
 
 
専門課程に進学し寮生活を送っていたために、アルバイトも禁止されていた私。
 
音楽にもファッションにも、同じ熱量でお金を使うことは出来なかったのです。
 
 
そんな毎日を送っていたある日。
 
同じクラスの友人とカラオケに行った際に、こんな言葉をかけられました。
 
 
「今日かじぃちゃんの着てるスカート、それ可愛いね!どこで買ったの?」
 
 
スカートは自分で仕立てているため、お店には売っていないことを伝えたところ友人は目を丸くして一言。
 
 
「え!そうなの~?!かじぃちゃんが同じの作ってくれたら、私それ買うし!!」
 
 
自分が作った、いわゆるハンドメイドの作品が、自分以外の人に認められた。
 
はじめて、自分の作品に価値を与えられた瞬間でした。
 
 
それまで、自分の為だけに物作りをしていた私。
 
この時初めて、友人のためにオーダーメイドのスカートを仕立てたのです。
 
友人の好みの色や柄をリサーチし、友人の着丈に合わせて服を手掛ける。
 
 
仕上がったスカートを受け取った友人は、とても喜んでくれたのを覚えています。
 
後日、私は友人にスカートの代金と一緒に、1枚のプリクラを手渡されました。
 
 
そこには、私が仕立てたスカートを履いた友人。
 
そして、友人の彼が友人をハグするように一緒に写り込んでいました。
 
 
「かじぃちゃんが作ってくれたスカートね、それ履いて彼氏に会いに行ったの。彼氏にも可愛いって言ってもらったよ。ありがとう!!」
 
 
大好きな音楽にのめり込み、大好きなバンドを追いかけていたあの頃。
 
人と関わることはまだまだ不得意で、気を許せる友人も少なかったあの頃。
 
 
それでも、私を認めてくれた友人との出会い。
 
作品に価値を与えてくれた友人とのエピソードは、私の人生において、1つの大きな転機になっています。
 
 
 

5.破天荒な型破りが、我が道を切り開く

自由
 
高校を卒業し、高校附属の専攻過程に進学した頃の私は、webを活用して人間関係を少しずつ拡張していました。
 
無料のメールマガジン配信スタンドを利用して、好きなバンドに関連するメールマガジンなど、趣味に関連するメルマガ3誌を発行するようになり、3誌を合計した総読者数は600人を超えていました。
 
メルマガの読者さんは全国に及びます。
 
時々読者さんからメルマガの感想などが送られてくるようになり、私はこれまで全く顔を合わせたことが無い知らない誰かと、メールでコミュニケーションを取る術を覚えたのです。
 
 
メルマガを発行するようになってから、自分の世界は急激に拡がりました。
 
自分が発信をした先に600人の読者さんがいて、メルマガを読んでくれている。
 
 
メルマガの読者さん達から、これまで自分が知らなかった情報も沢山教えていただきました。
 
その中の1つが、インターネットを活用したハンドメイドのネット販売です。
 
 
高校生の頃にハンドメイドの価値を認められた経験が、私に物作りへの意欲と自信を持たせてくれていました。
 
 
liveに着ていく服やアイテムをデザインし、作り、インターネット上の掲示板に販売のカキコミをする。
 
作品販売のお知らせを、メールマガジンで配信する。
 
 
まだ、フリマアプリも無料のネットショップも、キャッシュレス決済どころかネットバンキングさえもなかった時代です。
 
 
ガラケーにはカメラはついていませんし、Wi-Fiなんて、もちろんありません。
 
 
使える武器は、カメラ無しのガラケーと、emailアドレス。メールマガジン、ネット上の掲示板。
 
それから、母が使っていた家庭用ミシン。
 
それが、当時の自分が扱えたわずかな武器でした。
 
 
liveに行くための費用欲しさに、それらの武器を総動員して立ち上げた個人ブランド。
 
 
掲示板にupして、メルマガを発行すると、差ほど時間を待たずして買い手希望の方から連絡が入る。
 
サブアドレスを使って連絡を取りあい、定額小為替で取引する個人売買を、泥臭く繰り返しました。
 
 
「有難うございます!期待以上のものが届きました!」
 
「この服で、次のlive行きます!もし同じ会場にいたら会いましょう」
 
メルマガの感想だけではなく、作品の感想メールも頂くようになりました。
 
 
自分が作った服を纏う、まだ知らない誰かと繋がれることが、とても嬉しくて誇らしかった。
 
 
この頃の経験こそが、確実に今の仕事の基盤となっています。
 
 
 
「発信」という活動がまだ一般的ではなかった時代において、私が行ってきたことは破天荒で型破り。
 
 
親には「田舎者が、そんな見苦しい真似をしてくれるな!」と咎められたものです。
 
 
当時の私の販売形態は、20年前の世の中の常識からほんの少し外れていて、親世代の理解の範疇をはるかに超えたもの。
 
 
もともと学ぶことが好きな体質だった私は、この頃に半ば遊び半分でwebとの向き合い方も学んでいきました。
 
 
「発信」によって知り合った、1つ年上の彼とも付き合うようになり、私を取り巻く物事は極めて順調に回っていました。
 
 
光に包まれていて、とても充実していた日々。
 
 
でも…
 
 
 

6.ほら、ね。やっぱり私は必要とされてはいなかった…

泣く女性
これまでの孤独をひた隠しにして見ないふりをしてきた私に、ある日届いた彼からの1通のメール。
 
 
それは、私の見せかけで繕った充実の皮を剥がすには十分でした。
 
 
「29歳の婚約者が出来ました。しね。」
 
 
たったこれだけの文字で、送られてきたメール。
 
 
この頃自分は18歳。彼は、1つ年上の19歳。
 
 
いわゆる遠距離恋愛をしていたため、Eメールが唯一の連絡ツールでした。
 
 
一方的に送られてきたメールに私は納得ができずに、何度も何度も繰り返し返信を試みました。
 
けれどその日を境に、彼からメールが返ってくることは1度もありませんでした。
 
やがてアドレスも変えられたために、私が送ったメールは、送信エラーになって戻ってくるように…。
 
 
私は幼いころから感情を表に出して表現することが苦手だったので、10代の頃は恋愛に対してもひどく不器用でした。
 
その日彼を失った私は、少しずつ築いてきたビジネスへの自信も、自己肯定感も、一度に無くしました。
 
 
服を作る気力もない、携帯のメール画面を何度も開いては、来るはずのない彼からのメールの着信を期待し、空っぽのフォルダを確認して絶望感に襲われる。
 
掲示板のchatに書き込む気力もなく、「ほら、やっぱり。」「ほらね、やっぱり。私は、必要とされていないんだ…」そんな呪いのような思考が頭の中に居座り続けました。
 
 
ほら。やっぱり、必要とされていなかった。
中学の、あの時みたいに…。
 
 
自分の全てを投げ出してもいいとさえ思っていた、恋の終わり。
 
 
そして、これがトリガーとなって私は体重が32.7㎏まで落ち、まともに真っすぐ立っていられない程にやせ細りました。
 
摂食障害と睡眠障害も同時に引き起こし、ほどなくして鬱の再燃。
 
光の中から、闇の中に突如突き落とされた出来事でした。
 
 
摂食障害、睡眠障害、鬱の再燃により、私は看護師になるための実習カリキュラムをこなすことができない状態にまで、急激に衰弱していったのです。
 
 
実習カリキュラムの単位を落とした私は、退学か休学かの選択を迫られ、卒業年度に1年間の休学。
 
 
情けなくて、歯がゆくて、そこには絶望しか無くて。
 
そこからの1年は、生きているのに死んでいるような、生気の抜け落ちた日々を送りました。
 
 
退学ではなく休学を選んだのは、退廃していく自分が最後まで握りしめて手放したくなかったもの。
 
「意地」が、まだ心の片隅に残っていたから。
 
 
休学明け。私は1学年下の後輩たちと学生生活最後の1年を過ごし、何とか意地で実習カリキュラムをクリアしました。
 
そして、国家試験に合格して、同級生とは1年遅れで卒業まで駒を進めました。
 
 
実は、今思い返しても休学していた1年と、学校生活最後の1年は、ほとんど記憶がありません。
 
 
それくらい、自分の内面に頑強に蓋をしてしまっています。
 
うっかり思い出して、当時の私の記憶を呼び覚まさないようにしているような、そんな気がします。
 
 
この出来事から、私は自分の精神性の弱さを嫌と言うほどに思い知りました。
 
「私なんか要らない人」「私は必要ない人」という概念から私は自暴自棄になり、心も身体も不安定になりました。
 
 
私は5年制の学校を6年かけて卒業しました。
 
さらに卒業後、すぐには働く気力は湧かず、自宅で1年間の加療期間を過ごすことになります。
 
 
ところが、自宅で自営をやっていた父との折り合いが悪かった私。
 
ことあるごとに父と衝突し、やがて自宅にも居場所がなくなりました。
 
家出同然の状態で関東の友人を頼り、財布に手持ちの6万円と、自宅に戻らない覚悟を持って単身上京。
 
 
九州から関東に生活を移します。
 
 
 
「私は要らない人」「必要とされない人」という感覚は、今でも何かに傷つくたびに時々沸き起こっては、私を苦しめています。
 
 
上京した当時も「私は、この家には要らない人」「この家に必要とされない人」という思いが強く出ていました。
 
 
だけれど今は、この心の奥底で疼く黒い傷みの感覚も、大切に抱きしめて進んでいこうと思っています。
 
 
弱い自分も、私。なのだから。
 
傷ついた自分を理解して、癒えない傷をも受け入れて、一緒に時を重ねていくこと。
 
そうすることで、また先の新しい自分が開ける。
 
今は、何となくそんな予感がするのです。
 
 
 

7.仕事と、家庭と、生活と。

育児ノイローゼ
 
学校を卒業後に上京して、やがてパートナーと出会い、結婚して息子が生まれて。
 
上京後こそは、穏やかで平穏に暮らせる。
 
どこかで、そう期待していました。
 
現実は、生活のために働き、働くための生活をする。
 
経済的にも、精神的にも、時間にも。
 
一切の余裕がない、ギスギスした毎日でした。
 
2人目の子どもが生まれてから、そんな生活にさらに拍車がかかります。
 
毎日職場と、保育園と学童と家のみの往復の日々。
 
毎日同じ景色と、繰り返されるルーティンワーク。
 
 
残業して働いた分だけ、延長保育料と延長の学童費に消えていき、預金に回せる収入はほとんどゼロ。
 
それどころか、支出の多い月や身内の冠婚葬祭などがあると、わずかな預金を切りくずしてその月を何とかしのぐ生活。
 
 
 
5歳の頃に憧れていた看護師の国家資格を取得し、働き始めてから、もう10年以上が経っていました。
 
 
それなのに、働き方も、収入面も、精神負担も、新人の頃と何も変わってはいませんでした。
 
それでも、この仕事にしがみついて自分が頑張らないと、家族の生活を守っていくことが出来ない。
 
 
悩み、葛藤し、辞めたいと思っては、「働ける場所があるだけで有り難いと思わないと…」と、自分に言い聞かせる。
 
 
そんな日々の繰り返しでした。
 
 
そんなある日。
 
 
息子の誕生日の朝、私は家を出る時に息子と指切りをしました。
 
「お誕生日おめでとう!今日は、いつもより早く帰ってくるから、みんなでケーキ食べよう!約束!指切りげんまん」
 
そして、その約束を、私が裏切ることになってしまったのです。
 
 
終業時刻まであと30分。
 
何事もなければ、今日は平和に1日を終えられると思っていた時に入った、ナースコール。
 
嫌な予感がしました。
 
駆けつけると、緊急受診が必要な状態の入居者さん。
 
 
当時私は、施設で看護師をしていました。
 
私が勤めていた施設では、体調が悪い入居者さんの病院への付き添いは看護師が行っていました。
 
リーダー業務を担っていた私は、救急車の手配、家族への連絡、受診先の病院への連絡を行い、救急車に乗り込みました。
 
そして…。
 
 
家に帰り着いた時には、夜23時を回っていました。
 
 
その日、9歳を迎えた息子は起きて私の帰りを待っていました。
 
そして、涙をこぼしながら一言。
 
 
「…嘘つき!!」
 
 
と叫んで、泣きながら寝室に向かいました。
 
 
 
これが、生活のために働き、働くために生活を犠牲にしてきた顛末です。
 
 
 
私は、息子にとって特別な日に、彼の心を深く傷つけたのです。
 
 
 
仕事と、家庭と、生活と。
 
 
 
この時初めて、私は「仕事と家庭と生活についての在り方」について真剣に向き合いました。
 
 
何かを、変えたいと。
 
 
今の生活も、これまでの自分も。
 
まるっきり変えてしまいたいと。
 
 
看護師になって、10年。
 
身を粉にして働いてきた。
 
働く場所は変わって来たけれど、生活も、収入も、精神負担も、根本的な部分で変わったものは、何もない。
 
 
10年変わらなかったんだから、きっと、これから先の10年も、変わることはないだろう。
 
 
だとしたら、このままの働き方でいいの?
 
 
子どもたちは成長する。
 
成長に合わせて食べる量も増える。
 
必要になる教育資金は増える。
 
習い事の費用も増える。
 
お小遣いだって必要だろう。
 
時期が来れば、自分のスマホも持ちたいだろう。
 
受験期には塾も検討しないと。
 
家のリフォームも必要になるかもしれない。
 
 
 
支出だけは、確実に増える。
 
 
今のまま、預金を切り崩してしのいでいるこの生活は、いつまで続けられる?
 
 
本当に、このままでいい?
本当に、このままで大丈夫なの??
 
 
このままで、いいの?
このままが、いいの?
 
 
 
いいハズがない!!!!
 
 
流れを全く別のものに変えないと、これから先も、この生活は、何も変わらない!!!
 
 
 
 
それは、看護師を辞める決意をした瞬間でした。
 
 
こうして私は、決意をしてから半年後に『パンドラのはこ』を開業し、看護師だった自分にピリオドを打ったのです。
 
 
 
 

8.『パンドラのはこ』の幕開け

光
 
不思議なことに、なぜか看護師以外の職種への転職は、全く考えていませんでした。
 
勤めに行くという選択肢は始めから無くて、起業一択でがむしゃらに動きました。
 
看護師以外の収入を得る術を考えた時に、私にできることがこれしか思い浮かばなかったのです。
 
 
自分と同じように、「何かを変えたい」「現状を打破したい」という思いや、過去の私が抱えていた「誰かに認めて欲しい」「孤独の淵から救われたい」「押し潰されそうなほどに、寂しい」そんな思いを昇華させようとして。
 
あるいは、孤独を紛らわせようとして、縋るような思いで物創りに向き合っているハンドメイド作家さん、クリエイターさんたちの拠り所でもあり、互いの存在を認め合い、孤独を埋め、交流の場を作ること。
 
それは、これまでデジタルとアナログの双方を渡り歩いてきた自分だからできること。
 
 
出来るかな…?ではなく、出来る!という確信がそこにありました。
 
 
私は、たった2か月の間に厚さ5cmにもなる経営計画書を独自で書き上げました。
 
そして、その経営計画書を持って、管轄の創業支援相談窓口の門を叩いたのです。
 
物件の下見に何度も足を運び、テナント契約をして、そうして出来上がったのが「パンドラのはこ」という空間です。
 
 
この場所は、私にとっての光であり、社会人第2章の幕開けの場所。
 
これまで長い間悩み続けてきた「仕事と家庭と生活」の在り方の概念を根本から変えてくれる場所でもあります。
 
live配信
↑夜に配信しているInstagramのliveの様子です。毎回多くの方にご視聴頂いています。
 
皆さんから頂くコメントに繋がりの深さを感じています。
 
有賀さん
↑常連のお客様との1枚。
 
作家さんの作品をとても気に入ってくださっています。
 
作品を購入した後は、ご自身のSNSからも紹介してくださっています。
 
ラブリー
ラブリー
↑イベントの副主催も経験させて頂きました。
 
室内イベントでしたが、1日の開催で4500人近くの方にご来場いただきました。
 
4500人近くの人を前にミニオンの着ぐるみ姿で登場するという、貴重な経験もしました(笑)
 
ジモハック湘南
↑時には、勉強会にも参加させて頂いています。
 
お互いの業種は違っていても、同じ志を持つ仲間から受ける影響はとても刺激的で、自分自身の糧となっています。
 
この日、私が身に着けていた輪っかのイヤリングは、パンドラの作家さんの作品です。
 
 
 
「パンドラのはこ」をopenして、私の生活は一変しました。
 
自分を変えたいと、そう願い続けてきた過去。
 
「パンドラのはこ」を立ち上げたことで、やっと私は願いに手を掛けることが出来たのです。
 
 
今年で、「パンドラのはこ」も3年目。
 
良いときもあれば、しんどい時もあります。
 
パンドラを立ち上げてから、私は本当に、本当に人に恵まれています。
 
支えてくれる人、教えてくれる人、諭してくれる人、協力してくれる人、共感してくれる人、繋がりを持ってくれる人、叱ってくれる人、気付きを与えてくれる人、見たことのない世界を見せてくれる人…。
 
パンドラに関わってくださる皆様方には、感謝しかありません。
 
 
 
もし、かつての私のように行き詰って苦しんでいる人がいるのならば…。
 
私は「諦めないで、あなたに出来ることから動いてみて?私をお手本にして、構わないから」そんなエールを贈りたい。
 
 
あなたから動かなければ、今のあなたの位置から何も変わらない。
 
動いたことの結果は、例え時間がかかったとしても、何らかの形で必ず帰ってくるから。
 
 
今度は、自分が、かつての私のような人の支えになり、そっと背中を押してあげられる。
 
そんな存在になれるように。
 
 
そんな目標を新たに掲げながら、私は今、次のステージに向かって進んでいます。
 
数か月後に、何らかの形で次のステージの景色をあなたと共有し、共に楽しみたいと願っています。
 
 
もし、あなたが何かに迷いながら、悩みながら、ハンドメイド作家として活動しているならば。
 
パンドラのはこを、あなたの手でそっと開けてみて欲しい。
 
 
パンドラのはこの中で、あなたが来るのを待っているパンドラのコミュニティの仲間や、常連のお客様。
 
他でもない、あなた自身の新しい可能性にも、きっと出会えるから。
 
 
私が3年の歳月をかけて創り上げたパンドラは、そんなお店であり、そんな空間。
 
あなたがパンドラのはこを開けて入ってきてくれるのを、私はこの場所で両手を拡げて、仲間と一緒に待っています。
 
 
《Topix》
・好きな食べ物
海鮮、お寿司、肉料理、パスタ、チョコレート
 
・好きなスポーツ
立ち技系格闘技、高校野球、陸上
もっぱら見るのが専門
 
・好きなもの
邦楽ロック、ゲーム、何かを認められること、非科学的なもの
 
・趣味
読書(割と純文学が好き)、創作活動
SNS巡礼の旅
 
・苦手
ナメクジ、やたらに足の多過ぎる昆虫、自分のペースを乱されること
 
・好きなことば
「精神は肉体を凌駕する」
「人が思考できることは、実現可能なことのみである」
「見えるものだけ信じちゃダメだよ。見えないものも見なきゃダメだよ」